2013年の個展で特に印象に残っている出来事がある。
同じ地域の年配の方が、この写真を見て、あまり気持ちの良いものではないなぁーと、おっしゃったのである。その写真は多くの若い方からは僕と同様に、暑さの中にも風を感じさわやかな共感を呼んでいたし、また、植物の命の力強さたくましさも、僕の中での当時の「自然」観と一致していた。しかるに、その方の感じ方は違っていた。彼の目には、遠くの大きな木の根元で、農作業のひと休みしていた光景がありありと浮かんでいたのだ。そして、この地が耕作放棄地となっていることを嘆かれたのであった。
僕の写真は、その瞬間瞬間自分の感じたことにできるかぎり素直に撮っているので、その方の言葉を理解することはたやすかった。なぜなら、それは、知らない感じ方であったからなのだ。そこで、自分の撮影した写真を、新しい感じ方を持った状態で見返すことを繰り返した。
そうすると、おぼろげながらに、当時の「自然」観の中には、美しいと感じる視点と、命の力強さの、二種類があることに気づいたのだ。
言い換えると、一つは、人の手が入った美しさである。
もう一つは、手つかずの荒々しさ、たくましさだ。こちらも、ぼくは、自然の法則に従って秩序だった美しさを感じていた。なるほど、かように共感を得ると言うことは難しいと、悟ったのである。そして、その考え方を突き詰めて考えるにしたがって、当時の「自然」観では、人と自然は対峙した、とらえ方であったが、人は自然の一部ととらえることが、より素直であると思うようになっていった。
人と植物を命というくくりでとらえれば、石や、地球でさえも、同じ仲間としてとらえることができるように思えた。山川草木悉皆成仏が、言わんとしていることは、一つのたとえであり、共感を得るための方法ではなかったのかとも考えた。そのようにして、見えるものの中での思考を、見えないものにまで拡張することに至ったのだ。
人にとっての空気の大事さは絶対的なものである。そして、地球の成り立ちを知れば、空気の存在の奇跡的な確率を知ることになり、例えば、太陽の存在や、距離、海、植物、微生物、その絶妙なバランスで今があることを実感せざるを得ない。(突き詰めると、酸素なのだが、見えないので、空気としてテーマとしてはとらえることにした)
こうして、次なるテーマは「空気」を視覚表現することに至ったのだ。
その一見、滑稽なおろかな馬鹿げた行為を通じてだ。(つづく)