本作品群は、人との関わり方について、密接に、じっくりと、詳細に、慎重に詳細に調査し、密接に関連しているという前提から、あるほなつきが感覚的に形にしたものです。
どこにでもある景色、どこか懐かしい感覚、この感じは、そう、あの時の、あの場所だ。
でも、思い出そうとすると、細部はもうぼやけていて、クリアになることはない。
記憶の不確かさと、脳が作り出す世界とが相まって、ストーリーはつくられていく。
どこかでみたような、記憶と記憶が繋がってみえてくる、そんなものを探しています。
こっちとあっち、どこだろう。冬の匂い、または、太陽の思い出。
とおいむかしの記憶、または、はじめてみる、おもいだせる場所。
最上川は日本を代表する急流のひとつで、松尾芭蕉の俳句の中にも登場する。
「五月雨をあつめて早し最上川」という句だ。
この松尾芭蕉は「時代を経ても変化しない本質的な要素にも、新しい流れを取り入れていこう」という教えを俳句の理念として提案した。
その昔、海からの荷物は川を利用して内陸へと運んでいた。
このような物流を通じた文化の交流の足跡を今も感じることができる。
今、人と人とを繋いでいた川は、その役割を鉄道や車に取って代わられた。
見えないモノを意識し、見えないモノから何かを学ぼうとする取り組みとして、この川を観光船で下った。
真室川町を訪れる度に目にする風景は、季節によってさまざまに変化する。どの季節も、その場での五感から得られる感覚も相まって美しいと感じていた。
2016年の4月から、真室川町の広報誌「広報まむろがわ」の最終面の写真講評を担当するようになった。地元の人々が撮る写真は自身を通して、その景色を見ているという情感がありありと浮かび上がるものであることに気がついた。ベランダから見える景色。病院に行ったときに目にした景色。仕事帰りに見た景色。わざわざ撮りに行かずとも、日常と隣り合わせのほっとする景色。
また、元旦の日の、人物と風景が写った写真は「撮ってけろ」と言われて撮られたものだという。この瞬間を自身と一緒に記録したい想いが伝わる一枚であった。
今回の製作にあたり、あるほなつきには、このように日常と関わりのある景色とその想いを描きだしたいという気持ちも、どこかにあったような気がしている。
木のある景色を眺めてみる。
ぼんやりと見る景色の中にある木には、焦点は合っていない。そんな景色の中にあったであろう木を思い出そうとすると、それはなぜかはっきりとした姿で頭の中に現れる。こうだったよ、と自信ありげに。
木を眺めてみる。
ある木を眺めているときは、木に焦点は合っている。でも、よく見ていたはずのその木を思い出そうとすると、なぜかぼんやりとしていて、細部まで思い出すことができない。記憶の頼りなさを思い知る。
木の背景を感じた結果として、木漏れ日と木陰の時間差を描き出すことに成功したように思うのだ。
2019年最上川芸術祭において、あるほは最上川の写真作品を展示しました。この時の作品をヒントに2021年にふたたび、あるほなつきで取り組んだシリーズ。
見えない物を意識する新しい取り組みtranslucentシリーズ
情報の伝達が容易になり、価値観や文化の多様性が身近になったいま、「言葉に縛られる」ことは、かえって共感をさまたげる時代になっているのではないか。
木に絵付けされた、TAMAを見る。
すぐに言葉が浮かんでくるが、本当にそう思っているのか、あるいは話しているのか確かめる術はない。
東京で生まれ育ったalfoと、東京を知らないnatski。
alfonatskiにとっての東京とは、何なのだろうか?
チームというものは、1+1=2 よりも大きな成果を求められる。
alfonatskiも、そのような成果を期待し製作を始めた。
Prologue
– a part of alfonatski 2020 works –
alfonatski 2020 のPrologueとしての作品達
空気を撮ろうとする試みは、見えない物を意識する取り組みとして始めた。人間の目とは異なり、カメラが中空でもピントを合わせたままでいられるという違いは、空気を撮れると確信した瞬間であった。
この写真は、誰の為のモノなのか。
帰省の度に、高速道路からながめる東京は、ありふれた東京であった。それは、東京で生活しているときには、決してみることがなかったイメージなのだ。内から見ていた東京を、外から見ることができた瞬間であった。
一枚の写真をみて描いた絵。その絵をみて撮った写真。真室川町のマルモ醤油跡地をながめながら、絵と写真について考えました。
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