同時に、もう一つ気がかりだったことは、田んぼである。
僕は、不思議と田んぼとの関わりに縁があった。2007年に結婚を期に東京から山形へ移住した9/27が稲刈り日であったこと。それから3年後、義理の父が亡くなった翌日に僕らの地域の水源の草刈り人足があり、はじめて訪れた美しい水源で地域の皆様が水源に向かい黙祷してくれたこと。義理の父が、作っていた「はえぬき」を刈らねばならなかったこと。親戚一同、田んぼはたいへんだからいつでもやめて良いと言ってくれたこと。その結果、いつでもやめられるならと、続く限り続けようと作り続けていたのだ。
原発事故からほどなくして、地域の清掃の際、側溝の泥あげは、しばらく行わないということになった。もちろん、土壌汚染の大事をとってのことであったろう。僕らの地域の水源は蔵王、瀧山から流れる水とわき水によるものなので、当然、その汚染リスクについて頭を悩ませた。
最終的に、米は自宅用なので、まわりもやっていることに安心感を得て作ることにしたが、どこか他人事だった(意識しなくても安全が担保されていた)食への安全について、家族が食べるという現実に引き戻され、なぜこうなってしまったのかということについて、さらに深く考えざるを得なくなったのだ。
僕らの水源は、毎年5月には、地域約70世帯で、草刈り及び水神祭を執り行っている。年に数回の草刈り人足と、そこから僕らの住む地区まで数キロの道のりの堰の清掃がある。隣町には隣町の水源が、また別の隣町には別の水源がある。僕らの水源と隣町の水源は、一カ所、立体交差しているところすらある。人足をしていると数十年前まで、本当に水争いはあったこと、そして、代々、堰の手入れと共に守ってきた、そんなことを強く感じるようになった。
このような思いを抱き、水源をよく訪れるようになった。なによりその水源は、とても美しかった。代々守られてきたこの水源が、いま見えないモノと戦っているような気がして、僕は自然の声に耳を傾けてみようと思ったのだ。(つづく)