余白のアートフェアを終えて

2025年が明けて、1ヶ月。

振り返ると、全ては余白のアートフェアに向かっていたように思います。

1ヶ月ほど前に会場となる福島県は広野町に下見に行ってからというもの、色んなことを考えていました。

いいお天気の日でした
いいお天気の日でした

いつものように下道をゆっくり車を走らせていく中で見た景色。それは、みたことのないものだった。ひとつはメガソーラー。

遠くの山の斜面いっぱいにテカテカと広がっていた。

向こうの山の斜面に
向こうの山の斜面に

道路の脇のもともとは田んぼや畑であっただろう広大な土地にも一面に。

田んぼや畑だったところにも
田んぼや畑だったところにも

町が近づいてくると、所々に立入禁止区域の看板とものものしい警備員。

立入禁止区域
立入禁止区域

旅館やホテルの看板を見つけてホッとするも、それは旅館やホテルではなさそうで、誰かの住まいのように見えた。

原発作業員や仕事でこの町に来る方の住まいになっているのだろうか。

遠くに見える鉄塔
遠くに見える鉄塔

海の方を見ると鉄塔がいくつも見える。どこに車を走らせても、その塔は見えていた。調べてみると、広野火力発電所の鉄塔だった。

そうか。ここは、膨大な電力を作り出している町なのだ。事前知識からではなく、実際に見た景色から、ガツンと突きつけられた気がした。

会場となる二ツ沼総合公園では、パークゴルフ場のスタッフの方々が対応してくれたのだが、みなさんにとっては鉄塔は当たり前にそこにあるものであり、特に気になるものではないようだったことが、不思議な気持ちだった。

会場建物の屋上からの景色
会場建物の屋上からの景色

でも考えてみれば当然のことなのだ。生まれ育った場所が一番身近な景色であり、意識しないほど身に染み付いている。

近くで鉄塔を見てみたくなった。ナビを見ながら広野火力発電所近くの岩沢海水浴場に行ってみた。

夢中で撮影した
夢中で撮影した

鉄塔の下に広がる発電所の全てが目の前に現れ、その手前には海水浴場。波は休むことなく寄せては引き寄せては引いて、きっとその昔々からずっと変わらず海はそうしていたのだろう。空と海と火力発電所。雲は風によって流れ、波は打ち寄せては引く、その自然の動きの中で動かない火力発電所をひたすらじっと眺めていると、変化し動く絵画を見ているような錯覚に陥った。

山形の工房に戻って、余白のアートフェアに出品する、広野町とつながる作品をつくろうとした時に、モチーフとするものは火力発電所に即決だった。

パネル貼りをしている
パネル貼りをしている

あるほが広野火力発電所を撮ったものをプリントしてパネル貼りすると、圧倒的なその存在感になかなか筆を持てなかった。その上に何も描きたくなかったのかもしれない。広野町の人にとってみたら、火力発電所も自然と同レベルでそこに当たり前に存在するのかもしれないんだもの。でも、それはそこで生まれ育った人にしかわからない。

だから、その上に描くのはやめた。もっとわかりたい、近づきたい、でも理解しきれない、地元の人しかわからない部分を、自分に負荷をかけることで表現することにした。つまり、写真を頭の中で反転した画像を思い描き、それを真っ白い和紙に描いた。反転したのは、描いたものを裏にしてパネルと重ね合わせ、転写するためだった。

映し出された線は、実際の景色からほとんどがズレている。滲んでぼやけた部分もある。それが、地元の方の見え方と、そうでない人の見え方とのズレだったりするのかもしれない。

もしくは、例えば今後あの鉄塔がなくなったとした時の、実際の景色と記憶の中の景色とのズレであったりもするのかもしれない。

地元の方から「夜もぜひ行ってみて」と言われ、夜にまた訪れたその景色は、建物が灯りがオレンジ色にぼうっと包まれていて、あたたかい感じがとてもして、地元の方の想いに触れた気がしたんだ。

今まであるほなつきがテーマとして表現してきた「空気」、「目に見えないものの重要さ」というものがあるのだが、東日本大震災のあとにつくった写真絵本『空気売りの少女』では、まさに、震災直後、生まれ故郷の東京に戻った時に撮った写真が使われている。

今まで当たり前に吸っている空気、当たり前に夜に灯るあかりが、当たり前でなくなった時。電力を控えるよう通達が出る中で、東京で見たいつもよりも控えめな窓の明かりが、本当にあたたかくありがたく思えたのだった。

今回の余白のアートフェアでは、この『空気売りの少女』の原画とともに、広野火力発電所の作品を展示した。

そのことで、この場所で作られている電力を受け取って自分たちが生活していることを、改めて感じることができるような気がした。ことばでこねくり回して説明すると、言葉からはみ出る表現できない部分がたくさんあると気づく。だからこそ、私たちはひとつの作品として発表しているのだろうとおもう。